オッペンハイマー

「時系列」系だと思いきや・・・

大学時代に「メメント」を見た衝撃は忘れない。脳内でストーリーを追っていくので精一杯。でも脳内で時系列を構築するスピードが、ギリギリ作品の速度と合っている。「起こること、一つでも取りこぼすと物語がわからなくなる」というドキドキ感は、主人公の緊張感とリンクしていく。それは「テネット」でさらに加速。そして時系列の系譜は、この作品でも健在。モノクロ技法でどの時系列かがわかるようになっていてる。でもそのモノクロこそが、時系列で一番新しいという矛盾。白黒は過去の映像という常識が覆される。この辺が「クリストファー・ノーラン」味。でも、今になって考えると、時系列なように見えて、誰の視点から世界を見ているかという分け方の方がしっくりくるのか。「この監督だから時系列」だというのが最大の伏線になっているのかも。

音と映像

とにかく、音楽・音響がすごい。きれいじゃなくて「すごい」。不協和音で不安を煽る。静寂と爆音の繰り返す。これは映画館でないと体験できない。スクリーン自体から音が出てくるという映画館の構造が見事に生かされているなと。迫力のある大きな効果音を聞くだけのアクション映画なら、家でイヤホンでもいいじゃないと思うんだけど、これはそれともちょっと違う。音で感情を揺さぶられるという体験。人物の感情が大きく動いていることはわかる。でもどう動いたのか、明確な答えはない。自分なりの答えを探しているうちに、また音に脳を持っていかれる。これを繰り返されたら、そりゃ3時間があっという間。

リアルとは、何か

核の拡散が今よりも「リアル」な問題だった、この時代。ラストのアインシュタインの絶望も、オッペンハイマーの自責の念に蝕まれていくのも、全ては核戦争の足音が日に日に近づいて来るから。その「リアル」さは相当なものだっただろう。翻って今の私たちは、キューバ危機が回避できたことも知っているし、とんでもない数の核兵器が製造・拡散されてはいるけれど、それを打ち合ってはいないことも知っている。しかし、核戦争が起こることは本当に「リアル」ではないのか。「その〇〇、リアルだね〜」と言っているとき、「とはいえ、本物とは違うよね」という含意もまた同時に存在する。じゃあ「リアル」と「現実」が本当の意味で重なったとき、人は何をどう感じるのか。「明日にでも核戦争は起きるかもしれない」ことは、どうして私たちは「リアル」とは感じられないのか。その恐怖が沸々とラストで湧き上がってくる。

「描くこと」と「映すこと」

「原爆の被害が全く描かれていなくて、これでオッペンハイマーの映画と言えるのか」との批判を数多く聞いた。でも、自分が見た感想は「ちゃんと描いているやん」。確かに、直接的な描写はない。しかし、皮が捲れる描写だったり、黒焦げになった死体だったり、被害を想像できるモチーフはちゃんとある。彼はあくまでアメリカにいた。だから全ては伝聞。断片的な情報と自分の想像を折り重ねているうちに、「自分はとんでもないことをしてしまったんじゃないか」という彼の心の中に恐怖と絶望、良心の呵責がじわじわと、でも確実に広がっていくのが、音楽と相待って、こちらに伝わってくる。オッペンハイマーが原爆の被害を示すスライドから目をそらすシーンがあるけど、あそこで変な演技された方が嘘っぽくなる気がする。映画として「映すこと」が、全ての説明責任を果たすことにはならない。ベタだけど、映さないことで「描ける」こともある。でも、これ、原爆の被害を戦後教育で嫌というほど見てきた日本人の自分だから、そこを省略されても補完できるのかもしれない。アメリカ人がそこを日本人と同じように脳内再生できるかというと、う〜ん・・・。でも、何もかも一つの作品で求めるのも違うと思うし。もし「映さない」ことを許せない人がいるなら、それこそ、その人は自分の作品で「描く」べきだと思う。

「メディア」と「誤読」

あくまで史実に基づく作品だから、大きな展開や衝撃のラストが待っているわけではない。物語も淡々と進んでいく。だから原爆を作ることを一科学者として、むしろ喜んでいた彼が「いつ自責の念に駆られ始めたのか」が明確に受け取れない。これが小説なら心内描写で、事細かに感情の揺らぎを言葉で表現するかもしれない。漫画なら記号化されたアイコンで、感情の機微を表現するかもしれない。でも、映画は生身の人間がメディア。言葉や絵、記号と違って、どうしたって「正しく」情報を伝えるには限界があるし、ノイズも入る。でも、だからこそ、見ている人の「誤読」が入る隙もまたある。役者の表情やセリフの抑揚はもとより、目線、ほおの強張り、手の動かし方。全てを情報として捉えたら、「彼は今、こう思っているのかも」と無限に想像することができる。この映画は「戦争反対」なんて単純なものじゃない。ましてや、戦争映画でさえないのかもしれない。ただ、どんな「誤読」が起きるのかを試されている作品であることは間違い無いと思う。「人間」である役者というメディアを通して、人は「リアル」に直面した時、どうなるのか。「誤読」を一人ひとりが「描きながら」追いかける映画だと感じた。