映画メモ「インターステラー」

まず、話が無茶苦茶難しい。それは、話が小難しいということではなく、感情を追っていくのが難しいって感じ。登場人物はどう思っているのか、周りの人物はどう感じているのか。それがわかりそうでわからない。その薄気味悪さがある。人物の行動を突き動かしているのは、理性?使命感?それとも生命としての種の保存に対する衝動?少なくとも、愛の力はこの作品では大きな力を持っていると語られているけれど、それだって何を持って愛の力なのか、愛とはどこまでを指すのか、それは多くは語られていない。

この作品には、悪者は誰一人出てこない。確かに、主人公の命を危うくするもの、本来の意図を隠して語るものはいるものの、それだってそれぞれの正義の名の下に行動している。アメリカ映画でここまで、善悪をはっきり書かないのも珍しいんじゃないかなと思う。

それも相まって、誰に感情移入したらいいかわからなくなるんだよね。主人公は誰かすら、怪しくなってくる。みんな、正義があるし、そして同じくらい自分勝手。でもって、全員、心の奥底では何を考えているのかわからない空恐ろしさがある。

ノーラン監督は本当に時間を描くのが上手だなと思う。そして、ここに来てタイムスリップものというか、時間から真正面に対面したなという感じ。ウラシマ効果って一言で言ってしまうのは簡単だけど、この作品を通してそれがどんなに残酷なことなのか、どれだけ人の心を揺るがしてしまうのかが描かれている。というか、人類の悲劇は数あれど、この悲劇はおそらく今までの人類は誰も遭遇していなかっただろうから。

ラスト30分は、伏線回収というには、言葉が足らないものを感じた。気持ちよさというより、恐ろしさの方が勝る感じ。この映画は見える形で伏線を回収してくれた。でも、人生には、「回収されている」のにそれを感じ取れないこと、たくさんあると思う。今日、ブログを書けていることも、30年前のあの行動の伏線回収なのかもしれない。

この作品、ラストは全くもってハッピーエンドでもなければ、ある種、思わせぶりですらない。そして、完結もしていない。でも、現実ってそんなものなのかも。人が生きるって、誰かに橋渡しをしているだけで、どこまでもどこまで続いていってしまうってことなのかも。

最後に。この映画をどんな人に見てもらいたいかって聞かれたら、SF好き、家族感動もの好き?う〜ん、それよりも、わからないもの好きって答えるかも。あなたが、昨日、何気なくしたことが、何百年後の誰かの人生を決めるのかもしれない。あなたが、明日することは、千年前の誰かがしたことが引き金になっているかもしれない。そんなこと、永遠にわからないし、わからなくていい。ただ、自分の前と後ろに、広大な「誰か」の橋渡しがあるとしたら、今日、私はどう生きたいか。「わからない」と「わかろうとしない」は似て非なるものだと思う。

読書メモ「両立思考」

人は、どちらか一方に決めてしまいがちである。その方が楽だし、差し当たり問題も起きない。だから、小学校で「クラスでの遊び」は多数決で決めるのが当たり前。「鬼ごっこと椅子取りゲーム、どちらの人も満足できる遊びをするにはどうしたらいいですか」なんて聞かれた人はほとんどいないはず。

しかし、筆者はそれを「択一思考の罠」と呼ぶ。この罠の厄介なのは、うまくいった方法を人は強化してしまうところ。それはまるで不思議の国のアリスに出てくる深い深い「ウサギの穴」。そこを脱しようと逆振りしようとすればビルを解体する「鉄球」のようにいろんなものを壊すし、最後は「塹壕戦」よろしくそれぞれの意見に固執し、敵対し、溝がどんどん掘られていく。

わかっちゃいるけど、じゃあ「両立」なんてできるの?との問いにこの本は「ABCDシステム」ってのを提案する。

アサンプション:前提

そもそも、どっちか選ばなきゃって思わなくてもいいじゃない

バウンダリー:境界

意見をはっきりさせれば、組み合わせられるチャンス、あるかもよ

コンフォート:感情のマネジメント

一つに決めないことって別に嫌な感情だけじゃないぜ

ダイナミクス:動態性

ガッツリ決めなくても、ちょっとずつテストしちゃえばいいじゃん

筆者は、「どっちか決めきれない」状態を「パラドックス」と呼ぶ。その定義は「相互に依存しながら持続する矛盾」。

つまり、「定時で帰りなさい!」という上司と「そんなの仕事、多すぎるから無理!」という従業員も、互いに依存してるってことになる。確かに、上司も従業員も、お互いを悪者にすることで、相互依存している節はある。

これを打開するには、「ラバ」と「綱渡り」がポイント。解説すると、

「ラバ」は馬とロバといいとこどりな生き物。つまりそれぞれの良いところをコラボさせれば、一つに決めるよりも互いの良さや意見を尊重できるんじゃない?

綱渡りをするピエロは、実は静止する瞬間はなく、常に動くことでバランスをとっている。そんな感じで、それぞれのやり方をちょっとずつテストしながらバランスとっていこうぜ

なかなかいうは易し、って感じだけど思い当たる節はたくさんある。

「一つに決める」って達成感あるし、チームが一丸となるには必要な感じがする。だけど、よく考えれば、一つに決めることで軋轢が生まれたり、思考停止になったり、実は問題をたくさん産んじゃっているのかもしれない。

その瞬間、決めることで一時的な快楽を得るのか、それとも決めない気持ち悪さと同居して、長いスパンの幸せを得るのか。

ここで、かっこいい結論を書くことの衝動に負けず、あえてこのまま終わると決意することも、「パラドックス」なのかもしれませんw

読書メモ「YOUR TIME 4036の科学データで導き出した、あなたの人生を支える最後の時間術」

時間術という名の幻想

巷には、時間術があふれている。定時に帰りたいけど帰れない人は、世の中からいつまで経っても減らないし、働き方改革が言われて久しいが、その改革が成功したというポジティブなニュースもとんと聞かない。

実は、時間術は極めても実際の労働時間は減らないらしい。しかも、時間を気にしすぎることで、創造性すら失われるんだと。

では、時間術は全く意味がないのかというと、そうではない。実は時間術がうまくいくと、「幸福度」が高まるのだそう。

つまり自己有用感や自己肯定感に影響するのだ。自分はうまく仕事を進められている、仕事をコントロールできているといった感情が時間をうまく使えている人にはある。つまり人生を自分のものにできているという感触が手に入ることになる。

しかし、時間術=時間をマネジメントする、と思ってしまっては、いつまで経っても進歩はしない。なぜなら時間は絶対的なものではなく、その時の感情、行動で感じ方が変わってしまう相対的なものだからだ。

では、時間術のコツは何か?答えは「過去」と「未来」をどう見積もるかである。

未来=予期

将来を予想すると言っても本当の未来を正しく当てることはできない。あくまで計画できるのは複数あるシナリオの一つである。つまり、人間は未来に向けて「予期」をしているにすぎない。

予期には「薄い」「濃い」と「多い」「少ない」の2軸が存在する。

「薄い」予期とは、将来の自分と現在の自分との繋がりが薄ということ。つまり、将来起こるであろうトラブルを、今の自分がリアルに感じられるかどうかということである。これが薄いと、見積もりを甘くしてしまったり、トラブルシューティングに遅れて問題が大きくなってしまうことにつながる。

これを防ぐには、タイムボクシング法。時間を区切ってタスクを行い、自分の見積もりと実際にかかった時間のギャップを感じ、予期の精度を上げていくことで、予期の薄さをなくしていく。

「多い」予期とは、自分がいろんな将来を予想しすぎて不安に押しつぶされてしまうこと。これには今あるタスクを見直し、本当に必要な肯定なのか、省けるところはないかを考える「SSC法」で、意識を集中することに繋げていく。

自分のタイプは「浪費型」と出た。予期が「薄く」「多い」ため、楽なタスクから手をつけてしまい、重要なタスクに手をつけるのが遅くなるというもの。

ただ、あまり自分はこの傾向を感じないかも。確かに夏休みの宿題なんかは後回しにしていたから、本来的にはこの傾向は間違いなく自分の中にある。ただ、仕事のタスク化を通じて重要なプロジェクトの細分化はできていると思う。また、定時退勤を目標にしているから、この時間の中でこの仕事をやり切るという意識は常にしている。

そう考えると、自然とタイムボクシングとSSCによる業務の見直しは常にやっている感じで、特性としては持っているけどここに書かれている対処法をやっているから問題化していないって感じかな。

過去=想起

人間は客観的に物事を捉えるのが苦手である。特に、時間についてはあくまでも本人の「体感時間」でしか感じられないため、どうしても感情や状況とセットでしか物事を思い出せない。つまり、過去を考えることは「想起」しているにすぎない。

想起は「誤り」の度合いと「肯定」「否定」の2軸

過去の事実をどれだけバイアスをかけないで想起できるかが一つ目のポイント。これが甘いと、時間の見積もりの甘さやトラブルの事前予測の欠如につながってしまう。このずれを防ぐにはタイムログが有効。とにかく記録をとって、体感・体験としての過去と実際の事実のギャップに直面することで、問題の本質が何かを捉えられるようにする。

職場で実際にやってみようと思うのがこれ。多分、みんなが残業の原因だと「感じていること」と「実際に原因になっていること」には大きな隔たりがあると思う。そこに自覚的になることは、勤務の適正化の第一歩だと思っていたので、論拠となるものがあって嬉しい。

自分のタイプは「自信家」。想起の誤りは少なく過去を肯定的に捉えている。自信過剰は良くないけど、正しく想起できている限りではOK。過去にあまりバイアスがかかっていないのは自分も感じるところ。

結局、現在をどう過ごすか

時間をマネジメントできるというのは幻想である。しかし、「未来=予期」と「過去=想起」が正しくできたとしたら、正しく想起したことを生かして、できる限り正確に未来を予期することは可能である。

つまり、問題は現在。今、それが正しくできるかどうかである。それを裏打ちするものは「記録」。「記憶」に頼っていてはいつまで経っても予期と想起を誤り続ける。感情のフィルターを通さない客観的な記録があって初めて自分自身のことを正しく認識できる。

幸福感を得て仕事ができるか、それは客観的なデータから、いかにブレずに自分自身をメタ認知できているかにかかっている。自己分析は幸せと直結しているのである

Science Fiction NULLの可能性

本の帯は「スタンフォード監獄実験はイカサマだった!」。最近、いろんなところで社会経済学や心理学の実験が、再現できないことが言われていたのを聞いていたので、気になって購入。最初から感動したのは、表紙を捲ると、半分透けてる特別な紙にドットで題名がプリントされている所。これ、科学実験の不透明さと、点で描かれると人は自然とそれを繋ぎたくなってしまうというバイアスを表しているのではと、一人で考察して、一人でにやけてた。

さて、内容ですが、「学術誌に論文が掲載されることが評価につながる」と言う科学界のエコシステムが抱える問題点をめちゃくちゃたくさんの実例を上げながら論じています。乱暴にまとめると

  • 自分の信じた論は価値がある!だから多少、基準をいじったり数字を操作しても、世に伝えることのほうが重要だ!
  • 実験してたら本来と違うところで、いい感じの結果が出てきたかも。最初から、こっちを研究してたことにしよう
  • 学術誌は「革新的な」研究しか載せてくれない。そして、我が研究費は、その掲載により査定される。だったら、失敗した研究は封印しておこう
  • 「分母を小さく」すれば、小さな効果でも大きく映る。その結果が出た「いい感じ」な瞬間で実験をストップさせよう。

などなど。どれも、誰が悪いとは一概に言えないし、そうしてしまう気持ちもわからないではない。科学って、ものすごくドライなものの代名詞なように感じるけど、でも、それをしているのはやっぱり人間なわけで、そこにはざまざまな感情や思惑がいやでも発生してしまう。

この議論の中で「NULL」と言う考えがある。簡単に言えば、結果が思ったように出なかった、失敗作ということ。でも、これ、裏を返せば「この方法では成果は出なかった」という点においては、ものすごく価値がある。しかし、上に書いたような理由からそれは世に出す動機づけが全くない。学術誌が受け付けてくれないし、それを出したとて査定には何にも影響しない。

この科学的損失は計り知れない。だって、将来同じ実験をしようとしたら、同じ轍を踏みまくる、ということだから。リソースも時間も全部無駄になってしまう。

失敗が評価される世の中にしていこう、と言ってしまえば理想論のように聞こえる。失敗をなんで人は隠すのか、それは「それを評価する仕組み」がないから。逆を言えば、うまく仕組みを設計できれば、人はどんどん失敗をオープンにしていくんじゃないか。

本では「プレプリント」という暫定的な論文を広く見てもらい、査読や再現実験をむしろオープンソースにする方法が紹介されていた。気持ちに訴えかけるのではなく、それをしたくなる仕組みを練り上げる。これは自分の仕事でも一緒だなと感じた。

オッペンハイマー

「時系列」系だと思いきや・・・

大学時代に「メメント」を見た衝撃は忘れない。脳内でストーリーを追っていくので精一杯。でも脳内で時系列を構築するスピードが、ギリギリ作品の速度と合っている。「起こること、一つでも取りこぼすと物語がわからなくなる」というドキドキ感は、主人公の緊張感とリンクしていく。それは「テネット」でさらに加速。そして時系列の系譜は、この作品でも健在。モノクロ技法でどの時系列かがわかるようになっていてる。でもそのモノクロこそが、時系列で一番新しいという矛盾。白黒は過去の映像という常識が覆される。この辺が「クリストファー・ノーラン」味。でも、今になって考えると、時系列なように見えて、誰の視点から世界を見ているかという分け方の方がしっくりくるのか。「この監督だから時系列」だというのが最大の伏線になっているのかも。

音と映像

とにかく、音楽・音響がすごい。きれいじゃなくて「すごい」。不協和音で不安を煽る。静寂と爆音の繰り返す。これは映画館でないと体験できない。スクリーン自体から音が出てくるという映画館の構造が見事に生かされているなと。迫力のある大きな効果音を聞くだけのアクション映画なら、家でイヤホンでもいいじゃないと思うんだけど、これはそれともちょっと違う。音で感情を揺さぶられるという体験。人物の感情が大きく動いていることはわかる。でもどう動いたのか、明確な答えはない。自分なりの答えを探しているうちに、また音に脳を持っていかれる。これを繰り返されたら、そりゃ3時間があっという間。

リアルとは、何か

核の拡散が今よりも「リアル」な問題だった、この時代。ラストのアインシュタインの絶望も、オッペンハイマーの自責の念に蝕まれていくのも、全ては核戦争の足音が日に日に近づいて来るから。その「リアル」さは相当なものだっただろう。翻って今の私たちは、キューバ危機が回避できたことも知っているし、とんでもない数の核兵器が製造・拡散されてはいるけれど、それを打ち合ってはいないことも知っている。しかし、核戦争が起こることは本当に「リアル」ではないのか。「その〇〇、リアルだね〜」と言っているとき、「とはいえ、本物とは違うよね」という含意もまた同時に存在する。じゃあ「リアル」と「現実」が本当の意味で重なったとき、人は何をどう感じるのか。「明日にでも核戦争は起きるかもしれない」ことは、どうして私たちは「リアル」とは感じられないのか。その恐怖が沸々とラストで湧き上がってくる。

「描くこと」と「映すこと」

「原爆の被害が全く描かれていなくて、これでオッペンハイマーの映画と言えるのか」との批判を数多く聞いた。でも、自分が見た感想は「ちゃんと描いているやん」。確かに、直接的な描写はない。しかし、皮が捲れる描写だったり、黒焦げになった死体だったり、被害を想像できるモチーフはちゃんとある。彼はあくまでアメリカにいた。だから全ては伝聞。断片的な情報と自分の想像を折り重ねているうちに、「自分はとんでもないことをしてしまったんじゃないか」という彼の心の中に恐怖と絶望、良心の呵責がじわじわと、でも確実に広がっていくのが、音楽と相待って、こちらに伝わってくる。オッペンハイマーが原爆の被害を示すスライドから目をそらすシーンがあるけど、あそこで変な演技された方が嘘っぽくなる気がする。映画として「映すこと」が、全ての説明責任を果たすことにはならない。ベタだけど、映さないことで「描ける」こともある。でも、これ、原爆の被害を戦後教育で嫌というほど見てきた日本人の自分だから、そこを省略されても補完できるのかもしれない。アメリカ人がそこを日本人と同じように脳内再生できるかというと、う〜ん・・・。でも、何もかも一つの作品で求めるのも違うと思うし。もし「映さない」ことを許せない人がいるなら、それこそ、その人は自分の作品で「描く」べきだと思う。

「メディア」と「誤読」

あくまで史実に基づく作品だから、大きな展開や衝撃のラストが待っているわけではない。物語も淡々と進んでいく。だから原爆を作ることを一科学者として、むしろ喜んでいた彼が「いつ自責の念に駆られ始めたのか」が明確に受け取れない。これが小説なら心内描写で、事細かに感情の揺らぎを言葉で表現するかもしれない。漫画なら記号化されたアイコンで、感情の機微を表現するかもしれない。でも、映画は生身の人間がメディア。言葉や絵、記号と違って、どうしたって「正しく」情報を伝えるには限界があるし、ノイズも入る。でも、だからこそ、見ている人の「誤読」が入る隙もまたある。役者の表情やセリフの抑揚はもとより、目線、ほおの強張り、手の動かし方。全てを情報として捉えたら、「彼は今、こう思っているのかも」と無限に想像することができる。この映画は「戦争反対」なんて単純なものじゃない。ましてや、戦争映画でさえないのかもしれない。ただ、どんな「誤読」が起きるのかを試されている作品であることは間違い無いと思う。「人間」である役者というメディアを通して、人は「リアル」に直面した時、どうなるのか。「誤読」を一人ひとりが「描きながら」追いかける映画だと感じた。

読書メモ「鏡の国」

まず、小説を「登場人物と読んでいる」という構成によって、読者と登場人物を「物語の読み手」という点で一致をさせたのが面白いところ。この工夫をすることで登場人物に話しているようで、読者へメッセージ、特に謎解きのお題を与えられている感じ。

これはメディウムとの共通点を感じたかな。作品中の語り手にアドバイスをもらいながら、物語の中の違和感に気づけるか、というチャレンジになっている。

ただ、その違和感にもう少しドンデン返し感というか意外性が欲しかったのも事実。「物語単独で読んだのでは違和感はないけど、書き手のアイデンティティやキャラクターなどの属性を知っているからこそ感じる違和感」というコンセプトは面白いんだけど、そこが少し弱かったかな。

作者が実はあの人と同一人物だということや、犯人が実は、な点、〇〇は現実の人物ではないというミスリードはよく見る手法だけれど、そこは作品の面白さになっているし、強引さもそれほど感じなかった。

様々な障害を扱ったからこその難しさはあったと思う。そこに説明的になりすぎたり、寄り添いすぎたり。でも、作品にミステリー要素だけでなく、もう一つ別の作者が付け加えたいテーマを加えることは、物語に厚みを与えることに不可欠だし、このテーマがなかったらこの作品は薄っぺらいものになっていたと思う。小説における「作者が作品を通して伝えたいテーマ・問題提起」って難しい。それを全面に押しすぎると説教くさいというか押し付けになってしまうし、反対にそれを薄めすぎるとただのエンタメになってしまう。小説は「自分とは違う人物に『なれる』」ことが最大の特徴なのだとしたら、映画や説明的文章では感じられない「当事者としての苦悩」は描けていたのだと思う。

エンディングについては面白い。小説や漫画を読んでよく「このエンディング、美しいけど切なすぎる」ということはよくあって、それに対する問題提起がこの作品。確かに、本当のエンディングはハッピーエンドだし、これまでの伏線回収にもなっている。でも、物語の編集者が言うように明らかに美しいのは、偽りの方。「本当のエンディングは別にあった」って都市伝説はよく聞くけど(ドラえもんの植物人間の話とか、クレヨンしんちゃんは本当は死んでいる話とか)それに対する挑戦状かな。「全ての疑問に答えてくれる、全ての人が納得できるエンディングは、本当に最高のエンディングと言えるのか」。答えはう〜ん・・・。理性と感情はやっぱり別なのかもね。理解できることが美しいに繋がるとは限らない。