読書メモ「汝、星の如く」
切なすぎて、苦しくて、でも、読まずにはいられなくて。
一気読みしてしまう、しかも後半になればなるほど止まらなくなる小説。最後のシーン、文字通りページを捲る手が止まらない、なんなら、目が字に追いつかない。飛ばして読んでしまうのではなく、物語のエキスが文字を通す前に自分に入ってくる感じ?
苦しいことをポップに書く小説がある。本人たちは意外に淡々と楽しみながら生きているんですよ、というテイストのやつ。苦しいことを苦しいままに書く小説がある。どん底まで沈んでいくような、でも、その中に共感が埋まっていて、目を背けることができないやつ。
でも、この小説は苦しいことを確かに書いているのだけれど、どちらでもない不思議な感じがある。淡々とでもない。むしろ心理描写はめちゃくちゃ繊細で、細かい。読み進めるたびに、読者の心は動かされ、乱される。でも、それがストレスではない。程よい距離感で、付かず離れず、そこに自分を見出すのだけれど、でも、完全に自分のことを書かれているわけでもない。
エピローグが、めっちゃ秀逸で、これは前作「流浪の月」にも言えたこと。「当たり前」というフィルターをいかに自分は通してしか物事を見ていないかというのが突きつけられる。同じ叙述なのに、読後のプロローグは見え方が百八十度変わる。私たちは、島の人たちのこと、全然笑えない。
プロットだけ考えたら、「そんなわけないじゃん」と大人な人は突っ込みそうな設定なのだけれど、それでも、そんな恋も(正しくこれは恋だと思う)あるかもしれない、と思わせるくらいにはリアル。そんな恋に憧れもするし、でも、自分の人生を投げ出す、自分の矜持を折る(そもそも私におるほどの矜持があるだろうか?)ほどの恋を自分が受け止められるだろうか、と考えると、自分には「フツー」がお似合いなのだと思ってしまう。
出てきたみんなが救われなくて、出てきたみんなが救われる話。
映画メモ「Perfect Days」
私たちは全てのことを言語化できると思っている。
感情の理由、幸せとは何か、家族構成、葛藤の内訳。
生じっか「言葉」が世の中には溢れているから、いろんなことに名前をつけられる。名前をつけられると説明できた気になれる。
でも、もしかしら「名札・値札」をつけられると思っているのは幻想で、ただただ事実が、そして、その瞬間の情動が、次から次にやってきては消えていくだけなのかもしれない。
潮が引いてもう乾いた砂浜に、いくら言葉を注ぎ込んでも、もうそこに海はない。
主人公は本当に語らない。そして、映画も語らない。
彼がどうしてこのような生活をするに至ったのか。家族との関係は。周りの人物に対する感情は。そして、彼は今、幸せなのかどうか。
しかし、「説明しない」と「説明できない」と「説明がいらない」は何が違うのか。もしかしたら、違わないのか。
人生なんてのは、計画的に組み合わせられるレゴではなく、ただただ渡されたものを闇雲に上に重ねていく積み木みたいなものなんじゃないか。そこには、きちんとした理由もなく、色分けされた感情もない。ただ、積んでいくだけ。
そんな数少ない彼の言葉で印象的なのは、影踏みの場面。
「変わるはずですよ」
「変わらなきゃ、おかしいじゃないですか」
そう、いくら闇雲に積んだ積み木だとしても、そこにはちゃんとした「名札・値札」が添えられなかったとしても、そこに積み木が「ある」ことは、「ある」ことだけは確か。
そして、その思いを、相手に、観客に伝えられるのは、やっぱり「言葉」しかないという矛盾。
「丁寧に生きよう」という言葉にさえ、手垢がついてしまっている感がある今日この頃。「丁寧」は言葉を尽くすこと以外、何ができるのか。それでもやっぱり最後は言葉が必要なのか。
兵庫県知事選挙を受けて
今回の選挙結果の報道がいちいち、自分には衝撃的だった。ほんの1ヶ月前の報道では、元知事に対する辛辣なコメントはコメンテーターを筆頭に街の人の声でも溢れかえっていた。まるで「この人は叩いてもいい」と許可が降りたような、そしてそれを嬉々として受け止めているような光景だった。
それ自体は、もはやお馴染みの光景で、不倫報道や不祥事など「それは私刑では?」ということでも、マスコミは次の獲物を常に狙っていることが常態化し、視聴者は餌を待つ犬のように次の「ご馳走」を提供されるのを今か今かと待っている。
しかし、今回がいつもと違ったのは、選挙結果の後の報道。
「私は元知事に元から賛成だった」「マスコミに踊らされていた」と、恥ずかしげもなくコメントする地域の声を聞いて、何とも言えない気持ちになった。
確かに、「マスコミが何か大事なことを私たちに隠しているのでは」と権力側を疑うことそのものは、必要な姿勢だ。体勢側が自分の不利益になるような情報を隠すことは、歴史の上でずっと繰り返されてきたことだし、だから陰謀論はなくならないのだとは思う。
でも、もし仮に本当に踊らされていたとしたら、そのことを臆することなく話すかね?恥ずかしくはないのだろうか?
マスコミも、この報道を受けて「私たちは情報を精査して、何を伝え、何を伝えないかを判断しているので…」と火に油を注ぐような言い方としているのもどうかと思うけど。それをここでいってしまったら、負けでしょう・・・。
結局、どちら側も「自分はいかに正しいのか。自分の行動はいかに『しょうがないもの』だったのか」を一生懸命言い訳しているようにしか映らなかった。
民主主義は、完全なツールではない。その理由はいろいろあると思うけど、一つ「投票するのが民衆である」という点があると思う。
つまり、民衆が常に学び続け、自分自身をアップデートして、自己研鑽する必要があるからだ。その場の雰囲気に流されず、また一つの論に執着する事もなく、常に多面的に物事を見る力が求められている。
人は学ぶ時をやめた時、何か一つのものを見つけそれを信じたがる。自分で考えないほうが楽だし、責任も自分にはない。「いや、騙されていたんだよ」という言葉だけで無罪放免になるからである。
「言語が消滅する前に」では、
「歴史とは、私たちがどうにもできない地層のようなものである。重しのようにのしかかっているものであり、その重みは勉強を続けないと認識できない。勉強を続けていないから、物語をどう自分たちに都合がいいように改変するかという話になってしまう。」
と述べられている。
勉強をし続けることは、半ば趣味のように言われている昨今。確かに新しいことを学ぶのは楽しいことでもあるし、もしかしたらそれは「余暇」の範疇に入ってしまうのかもしれない。
でもね、投票するほうが愚かであれば、権力側も愚かになるのは当たり前。別に、今回の当選者がどうとかいっているのではなく、このまま学ぶことをやめた有権者が、何を根拠に、何を後ろ盾に、投票をするのかを考えたら薄寒くなってくる。
とにかく、最初にできることは「読書」だと思う。そんなことかよ、と馬鹿にされるかもしれないけど、筆者が心血を注いで書いた(そうじゃないのもあるかもだけど)ものを読むことは少なくとも、他者の視点に立った世界の見方は見えると思う。
絶対に正しいものなんてない。間違っていることもない。世の中はそんなに単純じゃない。ただ視点の数だけ人は疑えると思う。立ち止まれると思う。
読書メモ「政治はなぜ失敗するのか 5つの罠からの脱出」
人が二人以上いる場合、政治は必ず存在する。
政治とは、簡単にいうと「約束」である。自分がしたいことと相手がしたいことが違う時、人は「約束」を交わす。お互いにその「約束」を守ろうとすることでお互いを信用することができる。
しかし、人は聖人君主ではない。どれだけ「約束」を交わしても、人は五つの罠に常に陥る可能性がある。
- 多数決で表すのは、一つの物事に対する賛否。軸が複数ある時、反対するために手を組んでしまうと、堂々巡りが起こってしまう
- 平等には「権利」と「結果」の2種類がある。権利を認めたことで生まれた結果の不平等を私たちはどう捉えればいいか
- 「私たち」と感じる人たちにしか連帯の気持ちは起きない。口ではどれだけ困っている人たちのために、と言っていても「私たち」が不利益を被る場合、それを本当に受け止めることができるか
- 私たちの社会は規則を守ることで安全を生んでいる。しかし「自分くらい」という気持ちが結果的に全体の安全を脅かす
- 人は短絡的である。どれだけ将来のため、と考えても他が目先の利益を得ている状態に耐え忍ぶことはできるか
人は弱い。しかし、その弱さを受け止めることができる。この罠の存在を受け止めることができれば、それを含めた「約束」を交わすことができる。罠に陥ることを前提に、そうならないための仕組みを組み込んでおけば、人は「約束」を反故にはできない。
と、ここまで偉そうに書いてきたけど、職場で何か新しいことをしたい、プロジェクトを進めたいと思った時、この罠をおさえているかどうかはかなり大きい。
多数決で物事を決めることの危うさを語る
平等とは「権利」と「結果」のどちらのことを述べているのか、確認する
「私たち」を入れたルールにすることで本当に救いたい人を守れるようにする
「ただ乗り」をしないルールを作る
将来と現在を繋げる
譲歩したつもりで、実は自分の得たいものを得る。なんて書き方したら、それは「政治家」っぽい物言いになってしまうのかな
読書メモ:「世界の終わり」の地政学「上」
とにかく、ネガティブな話。でも、今までの本とは違い、それを否定しようと思っても否定できないんだよな。ロジックは、綺麗に整っている。
確かに、アメリカの「秩序」はこれまでの歴史にはないものだった。今までは勝者がいかに時とモノを独占するかの問題だったのを、共産主義を倒すためにそれを180度転換して、いかに公益が活性化するかにパラダイムシフトをしたのは、本当にすごいと思う。しかも、そこに世界中がテンプレ化し、加速することが可能となった工業化がたまたま重なることで、寿命がのび、人口が増え、結果としてグローバルなものの生産が可能になり、分業が進んだことが重なったのは幸運と言われれば本当にその通りだと思う
それが、その必要がなくなった今、すべての時計が逆回転するわけだけど、それって恐ろしすぎる・・・
確かに子供の頃から豊かになっていく延長線上に自分たちの未来はあると信じていたし、戦争や困難こそあれ、世界はどんどん豊かになっていくものだと盲信している自分がいたことに気づかされた。人口が減っていく今、そして世界が思った以上に内向きになっていく今、このボーナスは終わって然るべきなのかもしれない
これまでアメリカのトランプ然り、ブレグジット然り、これからグローバル化がどんどん進むことへの最後の抵抗みたいに認知していたけど、これが逆回転の序章だとしたら・・・。
どんな怪談話より怖い話。
読書メモ「HORIZONS 科学文明の起源」
ここ最近、一部の界隈で「コロンブス」が話題になっている。とあるアーティストのプロモーションビデオでコロンブスをモチーフにした人物が、旅の途中、猿のような見た目の人物に人力車を引かせたり、文化を教えるといった描写が「差別的だ」ということらしい。
今回の騒動は、猿が登場していることもそうだが、コロンブスと共に登場していることで火に油を注ぐことになったようだ。まるで彼は悪役。しかし少なくとも、少し前までコロンブスはアメリカ大陸を発見した「偉人」として、教科書に載っていた。あの歴史の授業はなんだったのか。
さて、「歴史」と聞けば、どんなイメージが頭をよぎるだろうか。単なる暗記中心の受験科目?それとも一部マニアが、飲み会で蘊蓄を披露するためのもの?おそらく、大半の人が「過去の過ちを未来に繰り返さぬため」と優等生的な答えを考えたはず。では、改めて尋ねる。「その『過ち』とはなんですか」。
「アメリカ大陸の発見」。それは、歴史的にどんな価値があるのか。ネイティブアメリカンやインカ・アステカ帝国の人々はアメリカ大陸に古くから住んでいたのだから「発見」というワードも違和感がある。実はこれ、日本人の私たちにはイメージがしにくい。ヨーロッパ人にとってこの「発見」は、単なる新しい大陸を見つけたこと以上の価値があるのだ。
それまでのヨーロッパの科学とは、「過去の偉人至上主義」であった。アリストテレスをはじめとする数々の偉人たちが、この世の全てを明らかにしており、それを正確に受け取る作業こそ、科学だったのだ。しかし、それを揺るがす大事件が起こる。それが例の「発見」。なぜなら、過去の偉人たちの誰も、その大陸の存在を予言していたり、地図に記していなかったからである。
きっと当時の人たちは度肝を抜かれたはず。そして、こう思ったであろう。「これ、昔のおっちゃんたちが言ってたことって、全て事実とは限らないんじゃね?」そこから科学の大改造が起こる。実験、標本採集、測量。現在の私たちが「これこそ科学的」と感じるこれらの手法は、全てここからスタートした。わからないことは自分で確かめるしかない。つまりこの「発見」は、「アメリカ大陸が見つかったこと」と共に「過去の偉人たちは間違っているかもしれない」というダブルミーニングの「発見」だったのだ。
しかし、よく考えればこの発見はあくまでも「ヨーロッパ人」から見た視点である。そして、世界史に出てくる偉人にはそのヨーロッパ人が数多く登場する。しかし、最近の研究で、決して彼らは一人で偉業を成し得たわけではないことが明らかになってきた。
孤高の天才と評される。アイザック・ニュートン。しかし、彼の発表した運動法則を証明するためには、地球の様々な場所での観測が不可欠だった。それを担ったのが、奴隷船で世界各地に訪れていた測量士たちである。そして、この計測を支えたのは現地の人々。この測量結果がなければ、彼は論の正しさは証明できなかった。また、コペルニクスも、一人で地動説を考えたのではない。ペルシア、ムスリム・スペイン、エジプトと面々と繋がる知識の蓄積があったからこそ、大転換は成し得た。それは、彼の著作にもはっきりと書かれているにも関わらず、歴史はいつの間にかその事実を人々から忘れさせた。
「歴史は勝者によって編纂される」とよく言われる。では、その勝者とは?それは紛れもなく産業革命に成功したことで、世界各地を植民地化し、世界大戦を巻き起こしたヨーロッパであろう。つまり今、学んでいる歴史とは「ヨーロッパ人、超かっこいい補正」がかけられているのだ。
だから、歴史は相対的に見ることが何よりも大切。言い換えれば、このヨーロッパ中心の歴史こそ「過去の過ち」そのものとも言える。世界は決してヨーロッパ人だけが作り上げてきたものではない。アラブや、アフリカ、アジアの人々は決して、悪役でもなければモブキャラでもない。
各地の正当な科学の歴史が本書には、数多く掲載されている。この本を読むことで、私たちは、コロンブスのように「当たり前として疑わなかったもの」をもう一度見直す「発見」ができると思う。
読書メモ「遺伝と平等」
「あなたの大事な人を殺した犯人は、遺伝的な衝動性を持っています。よって、今回の犯罪では本人の責任は問えません」と言われたら、納得できるだろうか。
「そんなわけないだろ!」と思ったあなた。では「性同一性障害は、遺伝子は全く関係なく、完全に本人の責任である」と言われたらどう?
どうやら私たちは、「遺伝子のせい」という言葉を随分と都合よく使っているらしい。もちろん、著者は遺伝子でその人の人生が100%決まってしまうとは述べていない。しかし、よく考えてみると、遺伝子が原因であることに納得できる場合とできない場合が私たちにはあるようだ。
ハッとさせられた事例がある。耳の不自由な「ろう」の方のエピソードだ。ろうのカップルが体外受精を行った際、複数の受精卵から、ろうになることがわかっているものをあえて選んだ。それを聞くと私たちは、反感にも似た違和感を覚える。しかし、カップルは言う。「ろうを障害とは考えていない。」二人はろうを文化的アイデンティティとみなし、洗練された手話は、自分たちの文化を定義するものであり、手話があれば、自分たちは一つに結びつくことができると。
ここから見えてくる判断基準は、遺伝子による差が「かわいそう」かどうか。だから、性同一性障害は本人のせいにしては「かわいそう」だし、犯罪者の罪は「かわいそうではない」から遺伝子は拠り所にしたくない。そして、「ろうはかわいそう」と無意識に思っている私たちは、先の発言に戸惑う。
では、逆に遺伝子による差なんて考えない方が幸せなのだろうか。人類は、優生学による大きな過ちを犯した。それに対するトラウマから「人はみんな、同じだよ。差なんてないんだよ。」との声は正しいように感じる。しかし本当にそうだろうか。もしかしたら、その真意が、ヒエラルキーの上にいる人たちが座っている椅子を明け渡したくないから、だとしたら?
著者は、人は皆「社会くじ」と「自然くじ」を引いて生まれてくるという。「社会くじ」とはどんな環境に生まれるか、「自然くじ」とはどんな遺伝子を引き継いだのか、と言うメタファーである。
「社会くじ」に関して私たちは、本人がどうしようもないことは社会がなんとかしてあげないといけないと感じる。そうやってジェンダー問題やさまざまな差別を人々は乗り越えてきた。
では「遺伝くじ」はどうだろうか?人は、自分の成功を自分の努力の成果だと考える。それを「運」と言われることにとても抵抗感を感じるだろう。
しかし、IQはもとより、最近流行りの「非認知的能力」さえも遺伝子に紐づいていたとしたら?成功者はたまたま今の社会で成功しやすい遺伝子を持っているだけだとしたら?そして、それはどうやら事実である。
例えば、数学をどれだけ履修し続けられるかは、遺伝子の差異が大きく相関している。そして、目に見えない遺伝子の差は、履修履歴、学歴と目に見える差と変化していく。
「確かに生まれてすぐは、自然くじの影響があるかもしれない。でも、むしろ生まれた後の環境の方が本人への影響は大きいのでは」との反論はどうだろうか。それは、確かに正しい。しかし、環境さえも遺伝子によって左右されるとしたら?実は、子どもがどう反応をするかで、親のリアクションは変わる。こちらの話しかけによく反応する子どもの方が、親の発話は増えるのだ。とするならば「音声によく反応できる遺伝子」を持って生まれてきた子どもの親という「環境」は、さらに発話を促進する。つまり、遺伝子は環境を変えてしまうのだ。
では、私たちはこの事実をどう受け止めればいいのか。遺伝による差は仕方ないと全てを受け入れる?いや、人には差などなく、結果の全ては自己責任だと割り切る?
筆者は、どんなくじが自分に当たるかわからない前提で社会を構築するべきだと語る。諦めもせず、また見ないふりをするのでもなく、遺伝子による差を受け入れ、それでも誰もが幸せに暮らせる社会をつくるべきだと。
あなたは明日、自分が気づいていない遺伝的差異から犯罪を犯すかもしれない。その時、あなたは大勢にとって「守ってなんかあげたくない人」になるだろう。それでも、あなたは守られるべきか。生まれながらに引いたくじで全てが決まるのではなく、どんなくじを引いたとしても、全員にとって暮らしやすい社会とはどんな形だろう。