映画メモ「Winny」
視聴中、自分の心にずっと引っかかっていたこと。それは、映画は何をもって「リアル」になるのか。
結論からいうと、それは「台本からの逸脱」だと思う。
この映画は実話である「Winny事件」を取り上げている。だから、実際の結末を台本で勝手に変えることはできないし、法廷が主な舞台だから、感情を揺さぶるセリフも登場人物に言わせにくい。
ずっと「これがハリウッドで作られたとしたならば、どんな表現になっていたんだろう」と考えながら見ていた。
もっと登場人物の心情は分かりやすく描かれていたのだろう。裁判の場面では、息の詰まる弁護士と検察の応酬が展開されるんだろう。それはきっと見応えがあったはずだ。
しかし、良くも悪くも日本映画的なこの作品。裁判中の日常が淡々と描かれる。
では、実際の事実を並べたら映画は「リアル」になるのかというと、それはきっと否。たとえ、どれだけ事実を元にしても、映画的な脚色を加えることで、「リアル」は簡単に乖離していく。
ここまでまどろっこしく書いてきたけど、結局、映画の「リアル」さは、台本では作れないんだと思う。
じゃあ、何が「リアル」を産むのか。それは役者さんの「息遣い」だと思う。話している最中、不意に逸らされる目線。笑った後の一瞬の頬の緩み。ぎりぎり正しいのだけど、でもどこか違和感のある方言のイントネーション。どこまでが狙った演技なのか素人の自分には想像もつかない。だけど、時折見せるこの「演技を超えたと感じる息遣い」によって、人は確かに「リアル」を感じる。そしてそれは、アメリカナイズされた「分かりやすさ」とは対極にあると思う。
よく考えれば、人は現実世界でも「台本」を想定しているのかもしれない。本音しか言えない世の中は想像できない。でも、だからこそ、一瞬感じ取れる「リアルな息遣い」に人は喜び、怒り、悲しみ、そして感動する。
Winnyはファイル共有ソフトである。このソフトを使って違法な情報のやり取りが簡単に数多く行われた。
しかし、感情の「共有」は簡単ではない。言葉でどれだけ「嬉しい」と言っても、相手の本音は見えてこない。だから人は、視線、指先、声からなんとか感情の「共有」を試みる。この作品には、その「共有」ができたと感じる瞬間が確かにある。それはあらゆる情報が削ぎ落とされた映画だからこそ感じられる「リアル」なんだと思う。