読書メモ「遺伝と平等」

「あなたの大事な人を殺した犯人は、遺伝的な衝動性を持っています。よって、今回の犯罪では本人の責任は問えません」と言われたら、納得できるだろうか。

「そんなわけないだろ!」と思ったあなた。では「性同一性障害は、遺伝子は全く関係なく、完全に本人の責任である」と言われたらどう?

どうやら私たちは、「遺伝子のせい」という言葉を随分と都合よく使っているらしい。もちろん、著者は遺伝子でその人の人生が100%決まってしまうとは述べていない。しかし、よく考えてみると、遺伝子が原因であることに納得できる場合とできない場合が私たちにはあるようだ。

ハッとさせられた事例がある。耳の不自由な「ろう」の方のエピソードだ。ろうのカップルが体外受精を行った際、複数の受精卵から、ろうになることがわかっているものをあえて選んだ。それを聞くと私たちは、反感にも似た違和感を覚える。しかし、カップルは言う。「ろうを障害とは考えていない。」二人はろうを文化的アイデンティティとみなし、洗練された手話は、自分たちの文化を定義するものであり、手話があれば、自分たちは一つに結びつくことができると。

ここから見えてくる判断基準は、遺伝子による差が「かわいそう」かどうか。だから、性同一性障害は本人のせいにしては「かわいそう」だし、犯罪者の罪は「かわいそうではない」から遺伝子は拠り所にしたくない。そして、「ろうはかわいそう」と無意識に思っている私たちは、先の発言に戸惑う。

では、逆に遺伝子による差なんて考えない方が幸せなのだろうか。人類は、優生学による大きな過ちを犯した。それに対するトラウマから「人はみんな、同じだよ。差なんてないんだよ。」との声は正しいように感じる。しかし本当にそうだろうか。もしかしたら、その真意が、ヒエラルキーの上にいる人たちが座っている椅子を明け渡したくないから、だとしたら?

著者は、人は皆「社会くじ」と「自然くじ」を引いて生まれてくるという。「社会くじ」とはどんな環境に生まれるか、「自然くじ」とはどんな遺伝子を引き継いだのか、と言うメタファーである。

「社会くじ」に関して私たちは、本人がどうしようもないことは社会がなんとかしてあげないといけないと感じる。そうやってジェンダー問題やさまざまな差別を人々は乗り越えてきた。

では「遺伝くじ」はどうだろうか?人は、自分の成功を自分の努力の成果だと考える。それを「運」と言われることにとても抵抗感を感じるだろう。

しかし、IQはもとより、最近流行りの「非認知的能力」さえも遺伝子に紐づいていたとしたら?成功者はたまたま今の社会で成功しやすい遺伝子を持っているだけだとしたら?そして、それはどうやら事実である。

例えば、数学をどれだけ履修し続けられるかは、遺伝子の差異が大きく相関している。そして、目に見えない遺伝子の差は、履修履歴、学歴と目に見える差と変化していく。

「確かに生まれてすぐは、自然くじの影響があるかもしれない。でも、むしろ生まれた後の環境の方が本人への影響は大きいのでは」との反論はどうだろうか。それは、確かに正しい。しかし、環境さえも遺伝子によって左右されるとしたら?実は、子どもがどう反応をするかで、親のリアクションは変わる。こちらの話しかけによく反応する子どもの方が、親の発話は増えるのだ。とするならば「音声によく反応できる遺伝子」を持って生まれてきた子どもの親という「環境」は、さらに発話を促進する。つまり、遺伝子は環境を変えてしまうのだ。

では、私たちはこの事実をどう受け止めればいいのか。遺伝による差は仕方ないと全てを受け入れる?いや、人には差などなく、結果の全ては自己責任だと割り切る?

筆者は、どんなくじが自分に当たるかわからない前提で社会を構築するべきだと語る。諦めもせず、また見ないふりをするのでもなく、遺伝子による差を受け入れ、それでも誰もが幸せに暮らせる社会をつくるべきだと。

あなたは明日、自分が気づいていない遺伝的差異から犯罪を犯すかもしれない。その時、あなたは大勢にとって「守ってなんかあげたくない人」になるだろう。それでも、あなたは守られるべきか。生まれながらに引いたくじで全てが決まるのではなく、どんなくじを引いたとしても、全員にとって暮らしやすい社会とはどんな形だろう。