兵庫県知事選挙を受けて

今回の選挙結果の報道がいちいち、自分には衝撃的だった。ほんの1ヶ月前の報道では、元知事に対する辛辣なコメントはコメンテーターを筆頭に街の人の声でも溢れかえっていた。まるで「この人は叩いてもいい」と許可が降りたような、そしてそれを嬉々として受け止めているような光景だった。

 

それ自体は、もはやお馴染みの光景で、不倫報道や不祥事など「それは私刑では?」ということでも、マスコミは次の獲物を常に狙っていることが常態化し、視聴者は餌を待つ犬のように次の「ご馳走」を提供されるのを今か今かと待っている。

 

しかし、今回がいつもと違ったのは、選挙結果の後の報道。

 

「私は元知事に元から賛成だった」「マスコミに踊らされていた」と、恥ずかしげもなくコメントする地域の声を聞いて、何とも言えない気持ちになった。

 

確かに、「マスコミが何か大事なことを私たちに隠しているのでは」と権力側を疑うことそのものは、必要な姿勢だ。体勢側が自分の不利益になるような情報を隠すことは、歴史の上でずっと繰り返されてきたことだし、だから陰謀論はなくならないのだとは思う。

 

でも、もし仮に本当に踊らされていたとしたら、そのことを臆することなく話すかね?恥ずかしくはないのだろうか?

 

マスコミも、この報道を受けて「私たちは情報を精査して、何を伝え、何を伝えないかを判断しているので…」と火に油を注ぐような言い方としているのもどうかと思うけど。それをここでいってしまったら、負けでしょう・・・。

 

結局、どちら側も「自分はいかに正しいのか。自分の行動はいかに『しょうがないもの』だったのか」を一生懸命言い訳しているようにしか映らなかった。

 

民主主義は、完全なツールではない。その理由はいろいろあると思うけど、一つ「投票するのが民衆である」という点があると思う。

つまり、民衆が常に学び続け、自分自身をアップデートして、自己研鑽する必要があるからだ。その場の雰囲気に流されず、また一つの論に執着する事もなく、常に多面的に物事を見る力が求められている。

 

人は学ぶ時をやめた時、何か一つのものを見つけそれを信じたがる。自分で考えないほうが楽だし、責任も自分にはない。「いや、騙されていたんだよ」という言葉だけで無罪放免になるからである。

 

「言語が消滅する前に」では、

「歴史とは、私たちがどうにもできない地層のようなものである。重しのようにのしかかっているものであり、その重みは勉強を続けないと認識できない。勉強を続けていないから、物語をどう自分たちに都合がいいように改変するかという話になってしまう。」

と述べられている。

 

勉強をし続けることは、半ば趣味のように言われている昨今。確かに新しいことを学ぶのは楽しいことでもあるし、もしかしたらそれは「余暇」の範疇に入ってしまうのかもしれない。

 

でもね、投票するほうが愚かであれば、権力側も愚かになるのは当たり前。別に、今回の当選者がどうとかいっているのではなく、このまま学ぶことをやめた有権者が、何を根拠に、何を後ろ盾に、投票をするのかを考えたら薄寒くなってくる。

 

とにかく、最初にできることは「読書」だと思う。そんなことかよ、と馬鹿にされるかもしれないけど、筆者が心血を注いで書いた(そうじゃないのもあるかもだけど)ものを読むことは少なくとも、他者の視点に立った世界の見方は見えると思う。

 

絶対に正しいものなんてない。間違っていることもない。世の中はそんなに単純じゃない。ただ視点の数だけ人は疑えると思う。立ち止まれると思う。